伊達政宗は、米沢で生まれ育って、25歳で会津芦名をやぶり、黒川城に入った。神明通りの寺に一時居たのは、蒲生氏郷の話だったか、墓が在る。こまかいことはさておいて、

伊達氏は、伊達郡に居たものが、米沢に行き、それはどうなってるかしらんですが、
北の山形城に、叔父の最上義光が居た。


会津若松で、太閤秀吉に呼び出されたが行かず、この間、母の義姫によって毒殺されようとしたが、弟の小次郎を代わりに斬ったという話になっている。

また、仙台時代に、拉致された父をもろとも、犯人を鉄砲で撃ち取ったのである。よく、大河ドラマでありました。

其のように、父と弟を粗末にしたが、母は大事にしたことでいちおう、仙台の繁栄は、もたらされた。母と再開したのは30年ぶりになっている。

1611年、九月 会津で蒲生秀行が慶長地震に会い、12月 仙台に

大津波が襲った。翌年、バチカンに使節を派遣した。

秀行を継いだ忠郷は、家康の孫、中央通りの高巖寺、ながら

伊予松山に転封、そこで亡くなる。上山から弟の定知が松山に。

となっているか、初学のためこの程度で。

何が大事なのであろうか。

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