ここに至って、火器 大砲鉄砲、近代戦争、いわゆる現代の核兵器競争、広嶋長崎

放射能事故は、原発 平和利用といいながら、驕れる文明主義の考えが機を一にしている、のである。


すなわち、無制限に兵器を拡大する先に何があるか、
また訳分からん原子力の危険を、先行きの核のゴミをどうできるのか、

考えてんしのであった。


会津は武を以って尊しとしたが、鉄砲大砲の工場を城下の鍛冶町に作り、

生産品を米沢、仙台、秋田、 つるおかw、南部、額田、水戸黄門に売りつけて儲け用とは考えなかった。

ならぬ事はならぬ事だった。


そのような大量殺戮を人道とはせず、卑怯な真似はできない。


兵器で平気で戦争する気が無かった。

これは、太平洋戦争後の、平和憲法に近いものではないか、


未だに、平和憲法が護憲臭のお飾りとして近寄り難いものにされているのだが、本来は、世界にリードする戦後日本の方針であったはずだ。


会津の平和主義につけ込み、踏み込んで行った薩長以下、太平洋戦争から現時点まで何等変わらぬ迷妄のなじゃに居るんでないかい、思え 会津の古武士を。


佐川甚太郎利家は思った下考えなかった。

コメント

お気に入り日記の更新

日記内を検索