会津への里帰り
清水屋は今の大東銀行 ですよ。七日町。土方歳三も泊まって居たところです。あと誰でしたか、有名な話ですが。

栄町の清水屋も在ったんですが、分店ですか、今は何処か、まだ しらんです。実はそっちで、会津帝政党が自由党に殴り込んだという、清水屋事件が起きたと判りました。その時、新島八重が、七日町の清水屋に泊まって居て、新島襄が山形に行って居たらしいです。かえってきてから、自由党員にお見舞いし、その子どもかなんかが、同士社に入学する縁ができるのでした。俄かに、知識が入ったので、書いてみました。明治15年です。これが第一回の里帰りです。
50歳だと、大正10年で、二回目ではないでしょうか。
55ですか、山型に行ったらしいんで、行きか帰りに、または、行き帰りに、会津に寄ったはずですね、そのあと新島襄の安中での、講演が記録されているので、にっこうをとおって、群馬に行ったのかと思われます。
米沢ですがね、養子である娘が、元米沢藩士の 甘粕家から、出てるので、何かで行ったんでしょう、明治15年の新島襄の教育遊説で縁が出たのですが、甘粕某は、会津降伏の仲介に立った米沢藩の重臣です。
新島八重が覚馬を通じて、強力な人脈を有していたようです。そのころは、覚馬が生きてるので、覚馬の手紙が行ってる筈だと思います。

あと、だいさんかいめが、86歳か、大龍寺に、山本家の墓を建てたわけですが、

看護婦活動の、日清日露戦争後の 後半生、晩年は茶道になって、芸術家のような、師匠を務めたり、京都会津会に顔を出していたようです。
食いすぎて急性胆嚢炎でなくなったので、米寿を祝ったあとの、まだ、げんきだったらしいんですが、無理したんではないかと思い、百歳迄いけたんではないかと残念に思うとこであります。

大東でなく、福島さんですか。

補足として、明治19から、20年にかけての旅があります。
やえは、東京の松平容保邸に伺ったところ、留守だった、

せんだいで、遠藤敬止他と松島見物、そのごに、遠藤が、鶴ヶ城を購入する。

札幌に。その前かあとに、函館で嫁した日向ユキ 米代の隣組
と再開して記念写真がありますね。
この旅は、襄の病が出、会津まで回れなかったと考えます。


コメント

@home
2013年4月8日1:32

新島襄が見た磐梯山

1888 は、明治21 でした、明治15 だと新島夫妻が会津若松 清水屋旅館になので、磐梯山の 噴火してない姿を見たんですね!

襄だけ、明治19 年に、二度目の会津なので、この時も噴火していません。

明治20 に北海道をまわって、病気が出たので京都に帰ったので、噴火後の姿は見ていないんです。


大正10 昭和5 に八重が来てるとすれば、噴火後の実物見たんですが写真は、噴火後の物を持っていたことは、戦禍の鶴ヶ城の写真と並べて大事にしていたと nhkTVで言われたので、望郷の念はいかがなものか、

会津から、トウモロコシと クキの種を取り寄せたことがあり、

うまく育ったのか結果はしらんですが、よく歩きよく食べるひとであったようですが。

磐梯山噴火の写真と報道は、東北北海道の旅後の翌年に、京都でもたらされたんでしょうね。

お気に入り日記の更新

日記内を検索