戯け」と、田分け」は 何の関係もないと言えよう。

 広辞苑によると、田分け は、分家を出すことである。

 ところで、近世農民が、際限なく分家を出すことはできなかった。

 一方武士もまた、碌 笑 禄を食む身として、そうそう分家を作ることはかなわないであろう。

それはさておき、近世経済学を終わり、武士の生活であるが、

 今日の、学校通学・会社出勤のようなものではないと思われる。

学校のほうは、似たようなものかもしれないが、基本的に

在宅勤務といえるのではないのか。

 武家屋敷が城を囲み、登城してしまったら警護にならないから

在宅即持ち場と言えるかもしれない。

 無意味に集まっても仕方ないのである。

役回りで、それぞれに活動があり、自宅を事務所として動いていた感じがする。

 無論、さまざまの拠点は、城内や城下にある。

 SECURITY の観点から、必ず夜警の者が、存在したはずである。

 各家庭で、全員枕を並べて眠っていられるのは、安泰な世の中だからだ。

 原始社会でも、夜明けとともに起き、日暮れとともに寝ていたのか、決まったものではないと思える。

 具体的個別において、各藩の(藩と言わず会津家とか言ったのだが)各時代があったのだから
なるべく実証的資料によって、見なければならない。

裁判というものも、町奉行が取り調べるのではあるが、加判の者ども が決定を下しているのである。遠山金四郎景元の場合どうなっていたのか。
 また、吉良邸の討ち入り時の夜景の実態である。

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